傭兵反乱事件の真相

傭兵反乱は 781年に発生、翌年の 782年に治まった事件だ。
表向きは、ガーディアン部隊の設立に対する、傭兵達の不満が現れた事件だと知られておるが、その正確な動機と共和国守備隊の対応等が明かされていないので、
共和国からの公式コメントを信じている人は少なく、色々な疑惑や推測に包まれた事件とされている。
本誌では、 3回に分けてこの「傭兵反乱事件」を分析してみる事にした。

傭兵反乱事件の動機を知る為には、何故、この事件が起こったかという事から話をしなければならないだろう。
大賢者バルムントが発掘し、復元させた古代の科学遺物は、思考能力を持つ機械創造物だった。
「レッケンシュル」は、これらを利用して機械兵士を作り出す事に全力を尽くし、実用化の段階まで引き上げる事に成功した。
しかし、自分の研究が兵器として使われる事を知ったバルムントは、直ちに「レッケンシュル」との関係を切る事にした。
そこで、「レッケンシュル」は第一開発室(これが 「レッケンベル」の前身である)を作り、独自に研究・開発を進める事となった。
数年間の研究を重ねた結果、「ガーディアン」という機械兵士の開発に成功したのである。
「レッケンシュル」は、この「ガーディアン」を実戦に投入し収益を出したがっていたし、研究費や実績のプレッシャーをかけられていた。
「レッケンベル」は共和国の軍関係者達にガーディアンの投入を依頼するロビー活動を担当する事となった。
この時、「レッケンシュル」から「レッケンベル」は研究室ではなく、ガーディアンの製造・販売を担当する、独立子会社として名乗るようになる。
ロビー活動は成功し、共和国守備軍所属傭兵部隊に2中隊規模のガーディアン部隊が編成される事になる。
傭兵部隊はこれに反感を抱いた。ガーディアンに自分達の仕事を奪われるかも知れないという不安が傭兵部隊全体に広がり、
反感の表現としての命令不服従や露骨なサボタージュが始まった。

そうしているうちに、警備中だったガーディアンの識別装置が故障し、「牙傭兵団」の小隊長が殺されるという事件が発生した。
「レッケンベル」と守備隊は事件を隠ぺいしようとしたが、既に傭兵部隊全体に噂は広がり、事態は悪化するばかりであった。
そして、「牙傭兵団」が「レッケンベル」のガーディアンを破壊し、守備隊から離脱した事で、守備隊全体に暴動と離脱が相次いで起こるようになった。
最早、傭兵ではなく一つの武装集団となった離脱した反乱部隊は、ガーディアンの破壊や村の襲撃をしながら、「レッケンベル」社に向かった。

しかし、「レッケンベル」社と共和国守備隊の対応は早かった。
大規模のガーディアン部隊と反乱傭兵を無差別的に虐殺する共和国守備隊によって、反乱部隊は敗れていった。
存亡の危機に陥った反乱部隊の残党は、バルムントの屋敷に篭城し、共和国と「レッケンベル」に対峙する事になった。
バルムントの屋敷には、研究所が併設されており、外部からの進入者を防ぐ為の防御装置が設置されていた為、篭城を可能にしたのだった。

ガーディアン部隊と共和国守備隊は、バルムントの屋敷を包囲し、長期的な対峙戦を準備していた。
屋敷の中で孤立した反乱部隊は、篭城が長くなる事によって生じる食糧の不足等を恐れ、一週間も経たないうちに休戦を要求した。
しかし、共和国議会は休戦要請を拒否し、投降や降伏も承知しないと硬く宣言した。

かつては、共和国の為に絶対的な忠誠を誓った傭兵達だったが、休戦要請を断られた事によってパニックに陥る事になった。
指揮官は勿論の事、一般兵士の中でも意見が分かれ、反乱部隊は崩れ始めた。
一般兵士達の中には脱走を試みた者もいたが、屋敷から一歩出た所で、無残に殺されていった。それを目にした反乱部隊は最後の反攻を決意し、計画を立てた。
しかし、計画実行前日、屋敷の扉は何者かによって開放され、共和国守備隊とガーディアン部隊によって、屋敷の中の反乱部隊は勿論、屋敷の中の全ての物が
破壊され、消え去った。
無慈悲な鎮圧で、傭兵反乱事件は終わったと思われたが、思わぬ所から反発が起こった。

共和国守備隊の無慈悲な鎮圧に対する批判と、「レッケンベル」社への不信が高まり、傭兵反乱事件の真相を求める声が大きくなり始めた。
共和国は、傭兵反乱事件の調査団を結成し、調査にかかったが、調査団が「レッケンシュル」関係者や共和国守備隊関係者によって構成されていたので、
正しい捜査は期待できない状況だった。

これを知った市民達は、執政官にて調査団に対する投票を提案し、この投票結果によって、市民達で構成された調査団が結成された。
この市民達が中心となった調査団は、「レッケンベル」社のロビー活動の件と賄賂を受け取った共和国守備隊の関係者を明かし、告発した。
また、バルムントの屋敷で、バルムントの研究品や創作品を盗み取った事も明かした。

これによって、関係者は処罰を受け、当時の「ドェニール」首相は任期を10ヶ月残して、他の執政官達と共に解任される事となった。

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